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2014/11/05

真面目に減らさず、楽しんで減らそう。

物は楽しんで減らした方がうまくいく
物を減らすことを難しく真面目に考えすぎていませんか?物は、もっと楽しんで減らした方が良いです。まあ、何かの岐路に立ち「心機一転!物を減らすぞ!」のような覇気のある気持ちの時なら、それも良いのですけどね。


努力と課程評価中心ではいつまでも結論が出ない
私たちは、学校生活で「結果よりも努力や過程が大事」だと教えられます。確かに、過程には「経験」「体験」が蓄積されます。そういう意味で意味がないとは思っていません。けれども、その価値観は、結果と現実を見ず、努力に満足してしまい、いつまでも結論が出ないことにも陥りやすいのです。


出来た人は努力をしても結果を出しても感情にも態度にも表さない
努力評価型でしばしば同時に用いられるのが「感動」です。最近の傾向は「感動の大安売り」です。本当に出来た人は、努力をしても結果を出しても淡々としています。普通の人にすれば十分に「感動」に値することをこなしても、よほどのことでない限りそれを表に表すことはありません。ところが最近は、何でもかんでも結果を出す前の経過のエピソードを安易に感動に持って行きがちです。ついには片付けさえも、そうした材料に用いられていることがあります。


テレビでも多すぎる浪花節良しの傾向
問題は、増えすぎたり乱雑に置かれた物にあります。ところが「努力重視型」の場合は、その原因をしばしば、そこに住まう人の感情にあるとされます。そうして、その課程には義理、人情の話が盛り込まれます。それらを否定する気持ちはありませんが「要は浪花節」を片付けに持ち込んでいるわけです。浪花節調の片付けの締めに必ずといって良いほど登場する場面が「涙」です。これがどうも苦手ですね。依頼者と片付けに関わったスタッフはともかく、最近、テレビのバラエティ番組でありがちで違和感があるのは、ちょっと涙ぐんでいる様子を「号泣」と表現する1こと。他にも、「多分、本当はたいして感動していないのに、テレビに映りたくて涙を流しているフリ(本当に涙が出ている場合もあるけれど)をしているな。」と思われる出演者があまりにも多いことです。


現実社会では大の大人がいちいち泣いていられない
多分、そういう人を映すと視聴率があがるからなんでしょう。でも、実際はどうですか?その程度(と言ったら失礼ですが、テレビで涙を流す人続出のエピソード)でいちいち涙を流していたら「この人はすぐ泣く。やってらんない。」と思われますよね。現実社会では、大の大人が人前で涙を流しても批判的に見られない場面など、そう多くはないのです。だから、普通の大人は「ちょっとしたことで涙を流さない」習慣ができています。子供の時はすぐに泣きますが、大人になるにつれて徐々に「人前で簡単に泣かない」訓練を積んでいくわけです。だから、今時のテレビで、出演者がすぐに泣くのはせいぜい演技だと思っています。


すぐに泣く人を信用しない
本当はそこそこ強いのに、涙を流し弱いフリをする。そうして「心優しい人」を演じる。そして同じ場にいる「涙を流さない人」が「鈍感で心が優しくない人」のように対比を作り上げてしまう。もしかすると、本人には全くそんなつもりがないのかもしれません。たまたま自然に涙が出ることはでるあります。けれども「涙を流す繊細で優しい私」に酔っているような場合もあるなとしばしば思います。もちろん、そんなことは思ってもおくびにも出しませんが。でも、本心はそういう雰囲気は最も苦手とするところです。だから私は涙腺やメンタルに持病があるのでない限り、大人であるのにすぐに涙を流す人を信用しません。

物を減らす過程に浪花節は不要
ものを減らしたり片付けをする課程も同じです。物に対して浪花節を持ち込む必要はありません。もっと楽しんで減らした方が良いなと思います。原因と問題解決の結果の効果などを浪花節にとらえてしまうと物が物に見えなくなります。同時に自虐感が行き過ぎて自分で自分を追い込んでしまいます。真面目な人ほど要注意です。本当は、「物」をどうするかというシンプルな話であるはずですが、原因が「人」にあるとされると、完全に否定出来る要素がないだけに妙に説得力が増してしまいやすいので注意が必要だと思います。物は「減らすべき」ものではなくて「まあ、物でも減らしてみよ~かな♪」のノリで淡々と「物」として向き合い、楽しんで向き合った方ががうまくいくと思います。







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